前の記事より引き続きで。。。かなりの長文です)
(この地球上の民族それぞれに、
特別な感情を呼び起こす固有の戦いがあるようです。
日本人にとっての「戦艦大和最後の戦い」
アメリカ人にとっての「アラモの戦い」
ユダヤ人にとっての「マサダ砦の戦い」
そしてギリシア人にとっての「テルモピュライの戦い」。
サッカーW杯においてギリシャ代表は、前半より一人少ない10人で戦う数的不利の中、
日本の猛攻を防ぎきりました。
「堅守」「規律」
その戦いぶりに、古代から続くギリシャ人の気質を垣間見るようでした。
日本人にとってはほとんど馴染みのない「テルモピュライの戦い」、以下がその物語の顛末です)
〜テルモピュライの戦い〜
今から二千五百年前。
当時猛威をふるった超軍事大国ペルシア帝国が、
次はギリシアを征服しようと、凄まじい勢いで攻め込んできました。
ギリシア連合軍は急きょ会議を開き、迎え撃つ態勢を整えるために、
テルモピュライという山あいの地にてペルシア軍を食い止め、時間稼ぎをすることに決定しました。
その役目は連合軍の中からスパルタ王国が選ばれ、
スパルタ王レオニダス自ら、このテルモピュライに乗り込みました。
(これより前、レオニダスは巫女より国の行く末を占う神託を受けました。
“王が滅ぶか、国が滅ぶか”
レオニダスは迷わず前者を選び、出撃していったといいます)
付き従う者、わずか三百人。
(日本人にとってはとても不思議なことですが、その時ちょうどスパルタでは大きな祭が開催中のため、掟によりそれ以上の兵を出せませんでした)
しかし子供の頃から過酷な訓練(後の“スパルタ教育”の語源となっています)を受け続けた彼らは、
“ギリシア最強”と言われるほどの圧倒的強さを誇っていました《写真1》。
BC480年、8月。
テルモピュライに押し寄せたペルシア軍は六万(伝説では五百万)《写真2》。
二百倍に及ぶペルシアの大軍を、彼らは三日間に渡ってテルモピュライの地にて食い止め、
ペルシア皇帝の兄弟二人を戦死させるほどの善戦を見せました。
そして死闘四日目。
後から後から津波のように押し寄せてくるペルシア軍の前に、
ついに国王レオニダス以下、全員が戦死しました。
しかしこの国王以下、スパルタ兵三百人の命をかけた時間稼ぎにより、
ペルシア軍は二万とも言われる凄まじい損害を出し、進撃が大きく遅れました。
そしてその間に万全の迎撃態勢を完了したギリシア連合軍は、
ついにその後の決戦に勝利し、ペルシア軍を撃退しました。
強大な帝国にギリシアの自由都市が勝利した、〈ペルシア戦争〉として知られることになります。
そしてテルモピュライの戦いにおけるスパルタの戦いぶりは、全ギリシア世界に深い感銘を与え、
今日までギリシア人に語り継がれる伝説となりました。
今、そのテルモピュライの地には。
この地に散ったレオニダス王以下300人のスパルタ兵を偲ぶ、名も無き一つの墓碑銘が刻まれています《写真3》。
“見知らぬ旅人よ 往きて国びとに伝えよ
命に従い果てし我ら ここに眠りてあると”